夢の細道

夢日記

四国 クレウザ #83

彼は昨日までは意気消沈していたが、今日は朝からとても元気だ。何かいいことがあったかね、と聞くと、彼はポケットからスマホを取り出して、嬉しそうに彼女からのメールを私に見せた。「八月に四国へ一緒に旅行しない?」というものだった。おめでとう、と私が言った。先輩は四国へ行ったことありますか、と彼が言った。「うん、そうだね、小豆島に行ったことがあった。そこからフェリーで高松港へ行って庵治温泉に泊まった。そこから鉄道で海沿いを南下して徳島県の海部という所に一泊した。次は室戸岬だった。そこから足摺岬へ行った。そこから道後温泉に抜けて一泊し、フェリーで広島に戻ったことがあった。」

四谷の中南米音楽サークルの四人と大通りを歩いている。T子とF子とB君とN君。クレウザ好きのT子が、N君はタニアマリアが好きらしいけど、曲がワンパターンでいい加減にして欲しいと思うことがあると語った。F子はベッチカルバーリョだったかソニアサントスのファンだったか。こないだF子が私に女友達を紹介したいと言うので、三人で四谷のブラジリアンバー「サシペレレ」で会ったが、ミメウルワシクナイF子は自分より器量のいい女の子を私に紹介するはずはないのであった。
四人で四谷の大通りにある靴屋に寄った。バーデンパウエル好きのB君が黒の革靴を買うらしい。
マリア クレウザはヴィニシウス ジ モライスが死んでから、声が死んでしまった。不思議なことなのか、痛ましいことなのか。
古くてマニアックな話で申し訳ないが、モライスが亡くなったのは1980年、彼が66歳でクレウザは36歳だった。モライスはクレウザの声の源泉となっている心奥の核の部分を独り占めして、あの世に持ち去ったようなのだ。クレウザの古いレコードはほとんど廃盤で入手困難な状況であり、80年代以降のものは声が死んでいる。困ったものだ。唯一の望みはヤフオクで、歌詞カードの入った70年代の日本発売のものに限る😖💦最後の傑作「ポエマ」の日本発売は1981年だったかな。モライスの死が80年7月だから、ポエマの現地吹き込みは、その前の時期ではないかと思う。初めての方は「ONDE ANDA VOCE」とか「JANELAS AZUIS」「QUASE」なんかがいいんじゃないかな。「madrugada」もね。それに「eu e a brisa」。美女の普遍的特性を備えて、ひとりぼっちの淋しい男たちを、わけへだてなく平等に慰め憩わせくつろぎと潤いを与える救いの声音だったのだが。

新しい会社に入社した。社員百名くらいのデスクが並ぶ大部屋で、附近の人達と挨拶を交わした。斜め後ろに、こちらに向かって座っている女が知った人だったので驚いた。ボクを覚えているかい、と聞いてみた。知りません、とB孃が言った。ホラ###会社のマネージャーをしていたサトウさんだよと言うと、思い出してくれたようだった。そこで私はトイレに行った。B孃は以前の仲間たちに私と再会したことを伝えてくれるかもしれないと思いながら用を足していると、トイレにいた数人の男たちが慌ただしく出ていった。召集がかかったようだ。誰かが、いつでも召集に身構えてないとダメだと言った。私は、前もって予定を知らせてくれないと困ると思った。社内に戻ると、誰もいなくなっていた。外に出てみると、向こうから武装した連中がゾクゾクとやって来た。みんな自衛隊の訓練のように、ヘルメットをかぶり戦闘服を着て機関銃を持っている。会社の連中が召集されて着替えさせられたようだ。私はオイテキボリをくらったらしい。さっき会社で会った連中を捜すが見当たらない。会社に戻って、顔見知りの連中に、どういうことなのか聞いてみようと思った。